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2016.01.01 Friday
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暇、というのがどういう状態で、どんな感じがするものかを私はこの歳になって生まれてはじめて知ったように思う。退屈とはちょっと違う。
...
無意味と有意義。ずっと長い間、私にはその2種類の時間しかなかったし、それ以外の時間があるなんて考えたこともなかった。
子供の頃から三十代に至るまでの長い時間、私はそうして充実してきた。その充実が間違いだったとは今でも思わないが、自分の立っていた固いはずの地面が、こんなにも簡単に割れてしまう薄い氷だとは知らなかった。氷が割れて沈んだ水の底で凍え死ぬのかと思っていたら、意外にもそこは暇という名のぬるま湯で満ちていた。そこに横たわっているのは想像以上に楽で、しかも私にはそこから浮上しようという動機や目的が見つけられなかった。
男の人は偉いな、そして可哀想だなと私は夜の電車で居眠りをするサラリーマンたちを見て思った。男に生まれたばかりに、仕事先でも家庭でも強者であることを要求される。小さい方のケーキでいいと言うわけにはいかないのだ。
朝丘君と私は大きいケーキを相手に押しつけあっている卑屈な子供だ。彼と私はそっくりなのだと改めて思った。
わたしも今は、誰にも会いたくなかった。そういう気分をわたしは初めて知った。
...
けれど、怒りの底のほうに何か違う感じのものがへばりついていることをわたしは感じていた。
悔しい。認めたくない。けれど、どうしようもなかった。わたしは落ち込んでいるのだ。自分で自分を持て余していた。
...自分が間違っているような気がして、物事がうまく運ばないのは自分が悪いからだという気がして、自信をなくしているのだろうか。誰かと話をしたいのに、そうするのが怖くてひとりで夜の道を歩いているのだろうか。