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2016.01.01 Friday
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よく、日本には哲学がないからダメだ、といったふうなことをいう人がいますね。しかし、わたしは、日本に西欧流のいわゆる「哲学」がなかったことは、とてもいいことだと思っています。
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哲学とは、「ありとしあらゆるもの(あるとされるあらゆるもの、存在するものの全体)がなんであり、どういうあり方をしているのか」ということについてのある特定の考え方、切り縮めて言えば「ある」ということがどういうことかについての特定の考え方だと言ってもいいと思います。
こうした考え方が、西洋という文化圏には生まれたが、日本位は生まれなかった。いや、日本だけではなく、西洋意外の他の文化圏には生まれませんでした。というのも、そんな考え方をしうるためには、自分たちが存在するものの全体のうちにいながら、その全体を見渡すことの出来る特別な位置に立つことが出来ると思わなければならないからです。
いま、「存在するものの全体」を「自然」と呼ぶとすると、自分がそうした自然を超えた「超自然的な存在」だと思うか、少なくともそうした「超自然的存在」と関わりを持ちうる特別な存在だと思わなければ、存在するものの全体が何であるかなどという問いは立てられないでしょう。自分が自然の中にすっぽり包まれて生きていると信じきっていた日本人には、そんな問は立てられないし、建てる必要もありませんでした。西洋という文化圏だけが超自然的な原理を立てて、それを参照にしながら自然を見るという特殊な見方、考え方をしたのであり、その思考法が哲学と呼ばれたのだと思います。(P.18)
しかし、われわれ日本人の思考の圏域には、そんな超自然的な原理なんてものはありませんから、そうした思考様式は、つまり哲学はなかったわけであり、それが当然なのです。ですから、自分のわかりもしないものをわかったふりをする必要など全くなかったのです。(P.36)
しかし、西洋でもニーチェという思想家が登場してきたところで様相が一変します。...ニーチェの目指したことは、これまで哲学と呼ばれてきたものを全て批判して乗りこえようということです。その仕事を同じ「哲学」というままで呼ぶとひどく紛らわしいことになります。(P.166)
評価:
ダン アリエリー,Dan Ariely 早川書房 --- (2008-11-21) |
大半の人は、自分の求めているものが何か分からずにいて、状況と絡めてみた時に初めてそれが何なのか知る。
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自分がどんなスピーカーを欲しいのか、いま持っているものより音のいいスピーカーを聞いてはじめてわかる。自分がどんな生き方をしたいのかさえ、親戚なり友人なりの生き方がまさに自分のとるべき道だと思えてはじめて分かる。すべてが相対的、そこが肝心だ。わたしたちは、暗闇のなかで飛行機を着陸させるパイロット同じで、車輪を接地できる場所まで誘導してくれる滑走路の両側の明かりが必要なのだ。(P.25)
相対性は(相対的に)理解しやすい。しかし、相対性には、絶えずわたしたちの足をすくう様子が1つある。わたしたちは物事を何でも比べたがるが、それだけでなく、比べやすいものだけを一生懸命に比べて、比べにくいものは無視する傾向がある。(P.32)
給料の多さと幸福感との間に、私達が思っているほど強い関連がない(というより、むしり関連は弱い)ことは、これまで繰り返し立証されている。研究によれば、「もっとも幸福な」人々が住んでいるのは、個人所得が最も高い国ではないこともわかっている。それなのに、私達は、より高い給料を求めてやまない。そのほとんどは単なる嫉妬のせいだ。20世紀のジャーナリストにして、風刺家、社会評論家、皮肉屋、自由思想家だったH.L.メンケンは言った。いわく、給料に対する男の満足度は、妻の姉妹の夫より多く稼いでいるかどうかで決まる。なぜ、妻の姉妹の夫なのだろう?それは、この比較ならぱっと目につくし、手っ取り早く出来るからだ。(P.44)
ジェームズ・ホンは”ニューヨーク・タイムズ”紙にこう語っている。
「ボクスターの生活を送りたいとは思いません。だって、ボクスターを手に入れたら、次は911に乗りたくなりますからね。その911を持っている人たちが何に乗りたがっているともいますか?フェラーリですよ。」
これは、私達みんなが活用できる教訓だ。人は持てば持つほどいっそう欲しくなる。唯一の解決策は、相対性の連鎖を断つことだ。(P.49)
これから先、長い間おなじ決断をし続けそうな事柄(服装、食べ物など)について最初の決断を下すときも特別な注意が必要だ。そのような場面に出くわしても、これは1回限りの決断であって、大した結果を招くことはないと思うかもしれない。だが実際は、最初の決断の保つ力は、その後何年にもわたって未来の決断に影響をあたえるほど長く後を引くこともある。これだけの効力を持つのだから、最初の決断は極めて重要であり、十分な注意を払うべきだ。
ソクラテスは、吟味されない人生は生きる価値がないといった。私達もそろそろ、自分の人生における刷り込みやアンカーをよくよく検討していい頃だ。その刷り込みやアンカーがかつては全く合理的だったとしても、いまも合理的とは限らない。ひとたび昔の洗濯を考え直せば、新しい決断に、そして新しい一日の新しいチャンスに気持ちを向けられるようになる。(P.76)
私達は2つの世界に住んでいる。一方は社会的交換の特徴を持ち、もう一方は市場的交換の特徴を持つ。私達は、この2種類の人間関係にそれぞれ違った規範を適用する。また、これまで見てきたように、社会的交換に試乗記反を導入すると、社会規範を逸脱し、人間関係を損ねることになる。一度この失敗を犯すと、社会的な関係を修復するのは難しい。楽しい感謝祭のディナーに謝礼を払うと申し出たが最後、義母は何年もの間その出来事を根に持つだろう。もし、恋人になるかもしれない相手に、さっさと本題に入って、デート代を割り勘にして、ベッドに直行しようと提案すれば、おそらくその故意は永遠に壊れてしまうだろう。(P.115)
企業が社会規範で考え始めれば、社会規範が忠誠心を育てることに気づくだろう。更に重要な事に、社会規範は人々を奮起させる。柔軟で、意識が高く、進んで仕事にとりかかるという、企業が今日必要としている従業員になろうと努力する気にさせる。それが社会的関係のもたらすものだ。(P.124)
では、どうすれば教育制度を改善できるのか。おそらく、まずは学校のカリキュラムを考えなおし、社会全体が気にかけている社会的な目標(貧困や犯罪の撲滅、人権の向上など)、科学技術的な目標(省エネの増進、宇宙開発、ナノテクノロジーなど)、医学的な目標(ガン、糖尿病、肥満の治療など)とのつながりをもっとハッキリ分かるようにすべきだろう。そうすれば生徒も教師も親も教育により大きな意味を見出し、もっと熱心で意欲的になるかもしれない。また教育することが目標であるという点を忘れることなく、生徒が学校で過ごした時間数と生徒が受けた教育の質を混同するのは止めるべきだ。子供は様々なこと(例えば野球)に夢中になる。生徒が野球選手について知っているのと同じくらい、ノーベル賞受賞者についても知りたいと思うように仕向けるのが、社会としての私達の課題だ。教育に対する社会の情熱を燃え上がらせるのが簡単だというつもりはないがもし成功すればその意義は計り知れない。(P.127)
今回の研究によると、(被験者である)ロイはほとんどいつも思料があり、礼儀正しく、理性的で、親切で、信頼できる。前頭葉がしっかり機能していて、自分の行動もコントロール出来ている。ところが、性的に興奮した状態になり、爬虫類の脳が取って代わると、自分で自分だと見分けられないほど豹変してしまう。(P.143)
興味ふかいことに、この結果によると、ほとんどすべての人が先延ばしの問題を抱えているにもかかわらず、自分の弱点を自覚し、認めている人のほうが事前の決意表明に利用できる道具を使いやすく、そうすることで自力で問題を克服できるというわけだ。(P.162)
不正行為は、現金から一歩離れた時にやりやすくなる。(P.289)